プリマドール・アンコール
03-05 冬の花火(5)

 灰桜の住処に帰ってくるころには、すっかり辺りは暗くなっていた。アルタリアの冬の夜は、狼のように早い。昼間はからりと晴れていたが、ちらほらと雪が舞い始めていた。

 「あなたのマスターはもう帰っているのかしら」
 「いつ帰ってくるとか、聞いてないの?」

 リリアは嘆息した。灰桜が呑気なのか、そのマスターが鷹揚なのか。

 「マスターは、遠間博士ってひと?」
 「どういう意味?」
 「なんていうか……先進的な人なのね」

 灰桜はにこにこと笑っている。どうやらよほどの変わり者らしい。

 「……あら?」

 角を曲がったところで、進路を塞ぐように、一人の男が路地から現れて立ちはだかった。
 厚いコートの襟を立てた、大柄な男だ。帽子を目深にかぶっていて、表情は伺えない。

 「もしかして……あの人が遠間博士?」
 「え、違うの……?」

 灰桜は首を傾げている。
 リリアの背筋に寒気が駆け抜けた。

 「……誰?」

 足を止めて、声を投げかける。灰桜の袖を取って、歩みを押しとどめた。

 「ずいぶん上等な人形を連れてるじゃないか」

 男は低い声で、唸るように笑った。

 「リリアお嬢さんだね。一向に連絡がないから心配していたんだ」
 「あなた、もしかして……」

 リリアはその正体に検討がついた。
 じわりと、手のひらに汗が浮かぶのが分かる。

 「人形を連れた女の子がいるって話に聞いたんでね、もしかしてと思って追いかけてきたんだよ」
 「……こっちにも事情があるのよ。待たせたのは悪かったわ」
 「ああ、レディには準備が必要だからね。それで、もう支度は整ったのかい?」
 「こんな時間よ、出直してきて」
 「そうかい、それは失礼……ああ、ご挨拶だけでもしておこう」

 帽子を軽く取って、慇懃に礼をする男。
 それからゆっくり雪を踏みしめながら近づいてきて、名刺を差し出した。

 「……連絡先なら控えてるわ」
 「いいから、受け取りな。ご連絡はお忘れなく」
 「………」

 リリアは名刺を見もせずに受け取った。

 「しかし、見たことのない人形だな。こりゃすごい、まるで人間だ……」

 隣にいる灰桜を、まじまじと見つめてくる。

 「いいのよ」

 自己紹介しようとする灰桜を、リリアは押し留めた。

 「行きましょ」

 足早にその場を去っていく。

 「ごきげんよう」

 男はそれ以上深入りしてくることはなかった。
 リリアは振り返ることなく、灰桜の手を引いて足早にその場を去っていった。

*       *       *


 夕食に、灰桜は簡単なスープとパンを振る舞ってくれた。ゆっくりとスプーンで口に運んでいると、不意に質問される。

 「そうね……そんなところ」
 「灰桜、それはダメよ」
 「もしまたあの人に会ったら、私を呼んで」

 なにも分かっていない様子で、にこにこと笑っている。
 こういうところは、いかにも人形らしいと思う。猜疑心や警戒心がまるでなく、リリアの言うことをそのまま信じ込んでいる。

 「灰桜、あなたはまるで子供ね」
 「……いいの、そういう話を聞きたいんじゃなくて……」
 「いえ……なんでもないわ。気にしないで」
 「灰桜、あなたも今日はいっぱい動いたから……」

 そう笑って、紙製ストローで、なにやら油のような液体をごくごく飲んでいる。
 どうやらそれが燃料で、背中の煙突からぽっとかすかな発炎が漏れる。
 かすかなシナモンの匂い。もしかしたらすこしハーブティーが残っていたのかもしれなかった。

 「灰桜、ありがとうね」

 食事も終わって、ふとリリアはそう感謝の言葉を伝えた。


 食器を片付けながら、灰桜は不思議そうにしている。

 「泊めてくれて、おいしい食事まで用意してくれて、お金のことも……」

 照れくさそうに笑って、でもどこか誇らしげにしている。

 「なにかお礼をさせてくれる?」
 「でも、悪いわ」

 灰桜はしばし考え込んで、やがて――


 弾んだ声で、そう提案した。

 「歌?」
 「そんなものでいいの? もっと……」
 「そう? じゃあ……」

 しばし考え込む。
 昼間、展望台で言った言葉が思い出された。

 「『冬の花火』なんて歌はどうかしら?」
 「ちょっと違うのよ、花火といっても、実際の花火を歌ったわけじゃなくてね、冬の寒い日に……なんて説明すればいいのかしら」

 検討もつかない様子で、小首をかしげている。

 「……でも、歌の説明するのは野暮ね。それでよかったらプレゼントするわ。聞いてくれる?」

 ぱちぱちと小さな手を打ち鳴らしている。
 足を揃えると、膝の上に両手を置いて、じっと傾聴する姿勢をとった。

 「………んっ」

 何度か、喉の調子を整える。
 暖炉であたたまった、湿った空気を吸い込む。

 「~~~♪」

 胸に手を当てて、そして歌声を震わせた。


 「~~~♪ ~~~♪」

 最初は椅子に座りながら。
 でももっと伸びやかな歌を届けたくて、気づけば立ち上がっていた。

 冬の花火。
 夜空にまたたく奇跡よ。
 我らを包み、光をまたたかせたまえ……。

 レバルジャク少女歌劇団でずっと歌い継がれてきた一曲だ。

 「~~~♪」

 やがて最後の裏声を響かせて。
 劇団でいつもそうしているように、うやうやしく一礼した。


 圧倒された様子で、目を白黒させている。

 「そんな、大げさよ」

 興奮した様子で、気持ちを伝えてくれる。
 くすぐったくて、でも悪くない気分だった。

 「もぅ……これでいい?」
 「もっと歌ってあげたいところだけど……もう夜も遅いから」
 「まあ……疲れたのは、疲れたわね。いろいろあったから」
 「あ、ちょっと……」

 にこにこしながら、寝室のほうへと向かっていく。


 と思ったら戻ってきた。

 「え?」
 「確かに、最初の歌はひどかったわね」
 「そう、ね……そうかもね」
 「そう、ね。また……歌いましょう?」

 ぺこりとお辞儀して、そして寝室へと向かっていく。

 「………」

 すこし、胸が傷んだ。
 でも、仕方がない。いつまでも彼女の好意に甘えるわけにもいかない。遅からず遠間博士も戻ってくるだろう。

 「……ごめんね、灰桜」

 消え入りそうな声で謝罪する。

 「私、あなたに嘘ばかりついているわ……」

 その言葉を聞いたのは、部屋の片隅で車椅子に座っている、物言わぬ人形だけ。そっと眠るように目を閉じていた。



執筆:丘野塔也 挿絵:まろやか CV:和氣あず未(灰桜)


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