長く静かな夜が明け、遅い朝がやってくる。
雪はまだ降り続いたまま。白白とした空から剥がれ落ちるように、雪の結晶が舞い落ちていた。
すこしお寝坊なことを気にして、灰桜が寝室にやってくる。
雪明かりが反射する室内は、どこかうら寂しい印象だ。
きょろきょろと辺りを見回す。
室内は寒々しく、人の温もりは感じられない。
そのベッドは空っぽで、書き置きらしきメモが一枚置いてあった。重しの代わりに乗せられているのは、一枚のシリングコイン。
部屋の片隅に寄せていた車椅子は、最初から無かったかのように姿を消している。
* * *
リリア「よいっ……しょっ……」
雪に車輪を取られながら、リリアは車椅子を押す。
ひどく寒い朝だった。手袋をしていても、グリップを持つ手がかじかんでしまい、力が入らない。なんとか坂道を登りきると、遠くに総主教会が見えてきた。
ちらりと、名残を惜しむように振り返る。
展望台の上から、住宅街の屋根が広がっているのが見える。真っ白な雪を載せて、まるでベッドが立ち並んでいるようだ。
リリア「ごめんね、灰桜……」
短い感謝の手紙だけを残して、リリアは灰桜のもとを発った。
これ以上お世話になるわけにはいかない。彼女のマスターだってもう帰ってくるだろうし、そうなると余計な詮索をされるだろう。なによりあの男と接触してしまった。
コートのポケットを探ると、くしゃりと皺の入った名刺を取り出す。実のところ、リリアは迷っていた。いまならまだ引き返せるのではないか……そんな考えが頭をよぎる。きっと灰桜と出会ってしまったせいだ。ポンコツで、無邪気で……無垢な笑顔の人形。もうすこし早く彼女のような存在に出会えたなら、あるいは決断しなかったかもしれない。
でも、いまさらなんて言って劇団に戻ればいいのだろう。いや、そもそも居場所はあるのだろうか……?
男「お嬢さん、今朝は冷えるね」
答えの出ない考えを巡らせていると、背後から声をかけられた。
男「昨夜はよく休めたかい」
帽子を傾けて挨拶する。厚手のコートで覆われた、大柄の体。今日は首元に洒落た柄のマフラーを巻いていた。
男「そう緊張しないで。取引といこうか」
リリア「あの、私……」
男「おっと、いまさら怖気づいたなんて言うなよ」
じっと顔を覗き込んでくる。白粉のような匂いがした。
男「こっちも商売なんだ」
どすの効いた声を上げる。
リリアはもう後戻りできないのだと、改めてそう思い知らされた。
男「これが約束の人形かい?」
リリア「ええ……そうよ」
男「助かるねぇ。戦争続きで人形がちっとも手に入らなくてね。劇場で働いていたとなるとさぞかしいい値がつくだろうよ」
リリア「あの、お金は……」
男「そう焦るなって。モノを確認してからだ……」
粗雑な手付きで、人形に掛けられたストールを剥ぎ取る。
まじまじとその端正な顔を覗き込んだ。
男「……うん?」
リリア「な、なに……?」
男「おい、こいつは違うぞ」
リリア「違わないわ。レバルジャク少女歌劇団の歌唱人形よ」
男「昨日、お前の横に人形がいただろう。東邦製やつだ。あいつはどうした?」
リリア「待って……! あの子は違うわ」
男「違うもんか、あの人形ならとんでもない値段がつく。さっさと連れてきな」
リリア「勘違いしないで、あの子はわたしが連れてきた人形じゃない」
男「はっ、たまたま人形のお友達でもできたのか?」
男は小馬鹿にしたように笑う。まったく信じていないことは明らかだ。
男「ちょろまかしたのは一体だけじゃないんだろ? それとも別の買い手がいるのか?」
リリア「勘違いよ。私が売りたいといったのはこの人形よ」
男「こいつじゃ話にならないな」
リリア「……だったら、この話は無しにしてくれる?」
あまりに引き下がらないので、業を煮やしたリリアはそう切り出す。
さっと、男の顔色が変わるのが分かった。
男「お嬢さん、俺の顔を潰そうっていうのかい?」
リリア「そうじゃないわ、出来ないものは出来ないと言っているだけ……」
男「いい度胸だ」
座った目つきで、じりじりと近寄ってくる。
リリア「な、なによ……大声出すわよ」
男「好きにしなよ、あんたの味方がいるならな……ローベリア人さん」
リリア「………っ」
揶揄するようなその言葉に、リリアは歯噛みした。
バレていた。この髪の色のせいだろうか? あるいは、最初から検討をつけていたのかもしれない。
男「お情けでこの国においてもらっているってこと、忘れるなよ。不逞ローベリア人は……収容所送りだぞ」
その言葉に、リリアは背筋がぞっとする思いだった。
男「……東邦製の人形はどこにある?」
ぽん、と肩に手を置かれて、リリアは滑稽なほど体を震わせた。
リリア「そ、それは……」
一瞬、あの住宅が脳裏をよぎる。赤塗の壁。あたたかな暖炉。和やかな笑顔……。
リリア「……言えないわ」
絞り出すようにいう。
ちっとも暑くないのに、頬を汗が伝っていた。
男「ほーう……」
ぎゅっと肩に置かれた手に力が込められる。まるで熊にでもにじり寄られている気分だった。
不意に、声が響く。
この状況に似つかわしくない、明るく脳天気な声が。
「灰桜……」
背中の煙突から、水蒸気がたなびいている。
そこで笑顔を向けているのは、紛れもなく灰桜だった。
「え……」
そっと差し出してくれる。
それは、一枚のコインだった。メモを置くとき、重り代わりにしておいた……。
「どうして……」
「馬鹿なことしないで!」
灰桜はぴょんと飛び上がって、恐縮した様子で頭を下げる。
男「いいや、謝る必要はないさ。手間が省けたよ」
肩の重しは、気づけばなくなっていた。
男はにやにや笑いを浮かべながら、灰桜に近づいていく。
男「一緒に来てくれるかい?」
男「ああ、とっても大事な要件なんだ。お嬢さんの旅とやらも快適なものになるだろうよ」
リリアは、車椅子のグリップを持つ手に、ぎゅっと力を込めた。
「灰桜っ!」
「………っ!」
ぐっと力を押して車輪を転がす。
そのまま男に向かって突っ込んだ。
「避けて!!!」
勢いのついた車椅子は、そのまま男の腰骨あたりにぶつかった。
男「うおおおおおおおおぉぉぉ!?」
人形と合わせて、それがどれほどの重量なのか、男には検討もつかなかっただろう。
慌てて押し留めようとするが、それが逆効果だった。想定外の重みを受け止めきれず、そのまま一緒に坂道を転げ落ちていく。
「灰桜、逃げるわよ!」
その小さな手を取る。
リリアは無我夢中で駆け出していた。